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  • 執筆者の写真教育エジソン

映画『催眠』をめぐって


 映画『催眠』(東宝 落合正幸監督)を見た。松岡圭祐の小説『催眠』の映画化である。

 原作は、多重人格障害と見られる女性の謎を軸として、臨床心理の専門家たちが活躍するサイコミステリー。血が一滴も流れないのに、実に手に汗握る展開で、臨床心理学の知見が随所に開陳され、読者が「催眠術」に対して抱く誤解と偏見も、次第に解かれていく構成になっている。サスペンスでありながら、臨床心理士松岡圭祐のクライアントに注ぐ眼差しの温かさが伝わってくるような、たいへん読後感の良い小説である。

 さて、映画では、あの小説をどう料理したのだろうか。原作そのままでは、映画としては地味かもしれない。娯楽性を高めるための誇張や脚色は避けられないにせよ、原作のもつメッセージは正しく伝えてほしいものだと思いながら、映画館に向かった。「催眠が心の中の悪魔をえぐり出す/この映画は見終わった後のあなたを保証しない」などという宣伝コピーに一抹の不安を覚えつつも……。

 観客は、主演の稲垣吾郎のファンとおぼしき若い女性や、カップルが多い。しかし、映画が始まると、私はしばしば眉をひそめ、何度も目を背けたくなった。それは単に人物設定を借りただけで、原作とは似ても似つかぬグロテスクなホラー映画であった。

 のっけから、凄惨な自殺の場面が続く。奇怪な連続変死事件の謎を追う刑事は、稲垣扮する催眠臨床家の協力を求める。そして明らかになってくる真相は、何と「後催眠暗示による自殺」だというのである。

 「後催眠暗示」とは、催眠中に決められたキー刺激(例えば指を鳴らす、何かを見せるなど)によって、特定の行動をとるよう暗示されると、覚醒後でもその通りに行動する現象をいう。しかし、害のない行動だからできることで、意に反した行動はとらないし、自殺や殺人をすることはありえない。

 そのことは、映画の中でも、臨床家の口から何度もくり返される。にもかかわらず、自殺は次々と起きてしまう。被害者たちは、心の奥底に秘めた心の傷(とくに罪の記憶)に働きかける暗示によって、自罰的衝動が高まり、その結果、自殺に至る。昔、子どもが溺れるのを助けられなかった悔いを持つ老人は、突然、数十年前の事故の瞬間を思い出し、子の名を呼んで飛び降りる。主要人物の刑事も、友達を裏切った幼い日の罪の意識から、「許してくれ」と涙を流してピストル自殺するのである。そうして次々と犠牲者が増え、何の救いもなく、結末を迎える。

 実に不愉快な映画だった。

 「後催眠暗示によって仕掛けられた自罰衝動による自殺」は、心理学的には笑止千万だが、それよりも私は、このような物語を考える者の人間観に、強い嫌悪を感じる。おそらく誰でも心の奥底に、取り返しのつかない罪の記憶はある。それを背負って、人はどう生きて行くのか。そこにこそ、人間の苦悩の意味があるはずなのに、そうした罪の記憶をいじられ、自殺する――。人間の心理を、おもちゃにしているとしか思えない。

 重いトラウマを抱えながら、回復の道を懸命に探す人たちの苦しみや、それを援助しようとする臨床家たちの努力など、この映画の作者は、まったく眼中にない。ましてや、自分の映画が世の中に及ぼす悪影響について、何の責任も感じていない。これでは、小説『催眠』で、催眠療法への誤解を解こうとした松岡氏の意図も台無しである。彼は、どうしてこのような映画化を許したのであろう。

 パンフレットによれば、松岡氏は、落合監督とずいぶん話し合い、催眠の実演も行なって、催眠への正しい理解を促す努力を充分にした。その上で、ホラー映画にしたいという監督の意向を受け容れたという。松岡氏は、非難がましいことは一言も言っていないが、監督がずいぶん強硬であったことが伺える。けっきょく松岡氏は、押し切られたのであろう。「それなら、原作の使用を許可しない」と交渉の席を蹴るのは簡単なようだが、大人の世界ではそうそうできることではない。

1999.9.

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