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  • 執筆者の写真教育エジソン

わが人生最良の時(定時制高校の文化祭②)


 前任校都立O高校で過ごした12年間の最大の思い出は、やはり文化祭であった。

 体育館を会場として、3日間、定時制だけで各クラスがステージ発表を行なう。私が来る数年前、学校が荒れていた時代に、意欲ある先生たちが率先して始めた行事だという。

 転任早々、そうした先輩たちが、クラスの文化祭は何をやる、職員劇は新人が中心だぞなどと焚きつける。私もその気になって、担任の生徒たちが望むままに学園ドラマの脚本を書いて八ミリカメラを回し、同期の教員同士で職員劇『夕鶴』の舞台に取り組んだ。

 無我夢中で迎えた本番の3日間は、実に楽しかった。自分たちの出し物をやり遂げた充実感もさることながら、劇、音楽、映像とバラエティに富む各クラスの出し物は、日ごろ見られない生徒たちの個性とエネルギーを発見し、目を見張らせるに充分なものだった。

 中でも圧巻だったのは、4年生の劇『ベニスの商人』。ふだん無気力と反抗の表情しか見せないような生徒が、シャイロックをみごとに演じていた。舞台装置や衣装も凝っていて、みんなの協力でできあがっているのがわかる。何よりもすばらしいのは、それが、4年間やりつづければ、これだけのことができるという、生きた証拠になっていることだった。

 以来私は、文化祭にとり憑かれてしまった。

 転任当初から担任したクラスは、4年間、映画を撮りつづけた。ビデオではない。現像に出し、切って貼って編集する八ミリ映画。

 次に担任した生徒たちは、4年間、演劇をやり抜いた。とくにこの学年は、3クラスとも演劇に取り組み、互いに競いあうようにして、みごとに個性を開花させていった。

 映画のクラスも演劇のクラスも、1、2年生の間は私が脚本を書き、主導的に進めたが、3年生からは、生徒が自分たちで脚本を書き、ほとんど自分たちの力でやり遂げて行った。不思議なほど、成長の軌跡は似ていた。

 とはいえ、何もないところからみんなで形あるものを作り上げて行くプロセスは、決して最初から楽なわけではない。毎年毎年、生徒のやる気の始動は遅く、これで果たしてやり遂げられるのかと気が遠くなる。しかし、生徒を信じて、話し合いの場をくり返し設定したり、キーパーソンとなる生徒たちに声をかけたりして、何とか方向を見つけさせていく。

 いったんスタートすれば、互いに触発し合い、当日に向けて、思いがけないエネルギーが出てくる。しかし、みんなでやっていく間には、誤算、行き違い、対立……問題は数知れず起こる。そうした問題を1つ1つ乗り越えて、共同作品を創り上げていく。その中で、クラスメイト同士の心の壁は取り払われ、仲間としての一体感が確実に生まれてくる。

 文化祭が終われば、3学期は目前で、欠席時数オーバーの問題が深刻になる。そんなとき、文化祭を通じてできた仲間同士のつながりが、強力な支えになっていくのだった。

 O高校での3年目、文化祭の創設に関わった生徒会顧問の先生たちが異動となり、私は率先して、そのあとを引受けた。

 初めて中心となって進めた文化祭は、大いに盛り上がったが、一部には、行き過ぎがあると批判の声も聞かれた。私自身も、全体を見渡す立場を経験してみて、せっかくの人材とやる気がうまく生かせていないと感じた。

 そこで、文化祭の問題を話しあう会をくり返し開いた。その中で、文化祭をやりつづけていくことの意義について、職員間のコンセンサスをつくりあげることができた。

 また、生徒と教員がチームを組んで自発的に動けるような運営組織の改善や、生徒会役員同士の仲間作りの工夫もしていった。

 そうした努力の結果、私が顧問だった8年間、O高校定時制の文化祭は、まさに最盛期を迎えた。

 毎年、3日間の日程を終え、後片づけを済ませると、同僚たちは三々五々、駅前の居酒屋の2階に集うた。そこで、自分たちの職員劇や各クラスの出し物を寸評し合い、準備の苦労や生徒たちの目の輝きについて、思う存分語り合う。あれは、ほんとうに至福の時間だった。同僚たちの心がひとつになる、という稀有な経験を、私はできたと思う。

 のちに、O高校の創立50周年記念誌を編纂することになったとき、編集委員を任された私は、定時制のページを「文化祭特集」にすることを提案し、10年間の文化祭の歴史を語る数多くの写真をちりばめた。

 それは、今でも私の宝物である。

2000.12.

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