教育エジソン

1999年3月1日3 分

能動的聞き方の力 3

 能動的聞き方が有効なのは、いままで述べたような一対一で静かに話を聞く場面ばかりではない。私が最初の学校で経験したように、学校現場で教師は、しばしば生徒の暴力や脅しに直面せざるを得ないが、そうした場面でも「能動的聞き方」は大きな力になる、と痛感した事件がある。

 いったん退学したにも関わらず、友だちを頼って毎日のよう学校に出没しては授業や行事のじゃまをする、という元生徒がいて、困ったことがある。しかも、彼はシンナーを常用していて、予測できない行動をとる危険があり、他の生徒にシンナーを勧めているらしい様子も見られた。職員会議では、警察とも連絡をとりつつ、エスカレートするようなら、臨時職員会議の決定を経て警察に通報することも考えよう、との合意になっていた。

 しかし、ある日、例の元生徒が校内で暴れているとして、教頭が独自の判断で警察に通報し、元生徒はやってきた警官に連行されてしまった。緊急に職員会議が開かれ、教頭の判断の是非と、今後の対応について、話し合いが始まった。

 その話し合いの最中に、廊下で大きな怒鳴り声がして、職員室の戸が荒々しく開かれ、二人の男子生徒がものすごい形相で入ってきた。連行された元生徒の友人で、友だちが警察に逮捕されたことを知って、大声で学校側のやり方を非難していた。

 「こんだけ教師が雁首そろえているくせに、何で警察を呼んだんだ。仮にも元生徒だろう。教師が自分たちで何とかすればいいじゃないか。それがお前らの仕事だろ」そう怒鳴りながら、あっと言う間に教頭に詰め寄った。「何で警察を呼んだんだ」と問う彼らに、教頭は虚勢を張るように「学校の秩序を維持するためだ。私にはその責任がある」。「警察呼ぶことが責任かよ。どうして自分たちで何とかしないんだ」と、生徒たちは声を荒げる。

 教師たちは、彼らと教頭を取り囲むようにして見守り、何人かの教師が「○○、落ちつけ」などと声をかけるが、生徒の興奮はいっこうに治まらない。担任教師が「やめなさい」と言いながら生徒の肩を押さえて引っぱろうとするが、実力行使は却って火に油を注ぎ、彼らはますます大声をあげた。

 私は事態を見守りながら、彼らのことばを自分の中で反芻していた。彼らの言い分は、身勝手さはあっても、彼らなりに筋が通っていると思われた。私は彼らに近づき、低く大きな声で、「君たちの言いたいことはわかったぞ。これだけ教師がそろっているのに、何で警察を呼んだんだと、そう言いたいんだな。俺たち教師がどうして自分たちの力で解決しなかったのかと、そう言いたいんだな」。そう、ゆっくりと言った。

 彼らは振り向いて、私を見た。しばしの沈黙の後、一人が「そうだよ」と静かに答えた。彼らの体から、急に力が抜けたように見えた。「そうなんだな。君たちの友だちを思う気持ちはわかったからな。これからどうしたらいいかは、今みんなで話し合っているところだ。あいつのために悪いようにはしないから、今日のところは、帰りなさい」。私がそう言うと、彼らはおとなしく教頭のそばを離れ、担任に付き添われて職員室を出ていった。

 このできごとについて、後で「あいつら、案外あっけなかったな」などと言う教師もいた。何を見ているのだろうと、私はがっかりしたが、正しい対応をすればあっけなく解決する問題を、こじらせてしまうことがいかに多いかということでもある。

 三回にわたって、能動的聞き方の成功例を述べてきたが、そうそううまく行かないのがむしろ常であるのは、言うまでもない。しかし、いくつかの成功体験は、私の中に、生徒の自己解決能力を信ずる気持ちを育ててくれた。その基本的信念を胸に、あの手この手で生徒と関わっているというのが、実情である。

 M・エリクソンのエピソード(本棚参照)を読むと、人の自己成長能力を呼び覚ますには、実に多様な手があるのだ感心する。というより、そのような自在な対応ができる自分になりたいと、切望せずにはいられない。

1999.3.

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