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  • 執筆者の写真教育エジソン

KJ法狂いのわけ


 KJ法とは、文化人類学者の川喜田二郎氏が開発した発想法であることはよく知られている。小さなラベルに書いたバラバラの情報を小グループにまとめ、だんだんと大きなまとまりにしていく。この過程を「分類する」と思っている人もあるが、KJ法の考え方の要点は、「分類しない」ことにある。

 既に持っている分類枠に情報を割り振っていくのではなく、個々の情報ラベルの語る内容をよく聞きとって、似た「志」を持つラベル同士を慎重にペアリングしていく。やがて初めはバラバラで収拾のつかなかった情報群の中から、思いもかけない本質・構造が見えてくる。それは、既成の観念や分類枠に変更を迫る、根本的な気づき・発見であることが多い。こうした過程を、川喜田氏は「混沌をして語らしめる」と言うのである。

 30歳前後の3年ほど、「KJ法狂い」の時期があった。授業中の生徒の発言でも、会議のメモでも、何でもかんでもKJラベルに書いて、模造紙の上に広げては、うんうんと考えて並べなおしたり、見出しを付けたり、暇さえあればKJ法をやっていた。

 KJ法は、学生時代から知っていたが、まだ、その真価には目覚めていなかった。教員になってからである。瞑想体験レポートにも書いたが、初めて赴任した定時制で担任経営に失敗し、自分の生き方に行き詰まりを感じていたときである。自分とは何なのか。片端から書き出した断片的な「私」像から、「本来の自分」が見えてきた。

「本来の自分」が出ているとき、私は明るく元気で、思いやりもある。が、それが出ないとき、私は暗く、疲れ、他人を顧みる余裕を失う。本来の自分が出ないのは、自分の価値を否定されまいとする自己防衛ゆえで、その態度がまた相手にマイナスイメージを与え、悪循環を招くのだとわかった。自己否定感に苛まれていた私に、それは、生きる指針と勇気をもたらす、画期的な発見であった。

 以来、困難な問題に直面しても、「私にはKJ法がある」と思えるようになった。KJ法にのめり込んだのは、それからである。

 KJ法はかなり時間のかかる作業であり、よほど本気でやらなければ、真価はわかりにくい。その意味で、KJ法に熱中する時期を持てたことは、私にとって幸運であった。

 とくに大きな成果のひとつは、授業についての基本的信念を見つけることができたことにある。

 当時、担任していた2学年の生徒たちに、定期試験の中で「どんな国語授業がいいか」の意見を募り、それをKJ法でまとめてみた。一見わがままと見える個々の意見の中から、浮かび上がってきたのは、意外にも、図に示すような、生徒たちの思いであった。

 この結果、私の方向は明瞭になった。

 表面的にはどう見えようとも、私は生徒の潜在的な向学心を信じられる気がする。彼ら自身も自覚していない真の願望に応えるために、私は授業の工夫を続けたいのである。

 KJ法の哲学は、ロジャースの来談者中心療法にも通じる。カウンセラーはクライアントに対して既成の分類枠(予断)を持たずに接し、そのことばをありのままに受けとめていく。その結果、予想を越えた本質的な気づきが得られる。

 瞑想もまたしかり。混沌たる自己を受け入れ、その混沌に語らしめる方法なのである。

#KJ法アイデア発想 #国語授業 #自己の気づき苦手の克服

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