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  • 執筆者の写真教育エジソン

イメージで芸術鑑賞する


 夏休みの初めに、東京の目黒区美術館で開かれていた、土門拳の『古寺巡礼』を中心とした写真展を見に行った。

 美術館は、イメージを意識して作品を鑑賞していると、長時間いても飽きない。寺で仏像を見るときもそうだが、土門拳の仏像写真は、対象にぐっと追って、実物を見るよりも、イメージをかき立ててくれる面がある。

写真を眺めながら私は、心の中で仏像の肌に触れてみる。青銅のひんやりした感触、表面の凸凹。木像・乾漆像の温かさ、歳月を刻む表面のざらざら。あるいは、仏像を心の中で回転させて、横から、後ろから眺めてみる。彩色のはげた様子、刀の跡を詳細にイメージする。そこからさらに、それを刻んだ仏師の仕事ぶりも思い浮かべてみる。ノミの音を聞き、額に流れる汗を見る。さらには、仏像のもとになった木が、原生林の一本として生え、鳥や虫が宿り、雨風と四季を経ていた様子を感じとる。

 唐招提寺の宝蔵にある古い仏像は、木肌がむき出しになったり、あるいは首・腕などが欠けて、木であることと仏であることが、むしろじかに追ってくる。「像」であることは歳月が流し去って、魂だけが残っている。

 時には、仏像との対話を試みる。たとえば東大寺戒壇院の広目天像。筆と巻物を持ち、武力よりも知性を重んじているようで、私は好きなのだが、その顔のクローズアップ写真があった。厳しく考えにふけっているまなざし。やがて、その重い口が静かに開き、何かを語る。そのことばを、私は心の中で聴こうとする。

 あるいは、法隆寺の回廊を歩きながら、エンタシスの列柱の向こうに真夏の日差しを感じ、蝉しぐれを聞く。五重塔に上り、その欄干の手すりを撫でて感触を味わい、風に鳴る風鐸を聞く。山々と都の眺望を楽しみ、門前の市に行き交う人々を眺める。聖徳太子の瞑想場であったとされる夢殿は今は立ち入り禁止だが、イメージの中でなら、自由に出はいりして、瞑想することもできる。

 イメージに浸っていると、思いがけないことが、ふっと天啓のようにひらめくこともある。たとえば唐招提寺の千手観音の写真を見て、金箔のまだらになった千本の手ひとつひとつに触れ、その感触の違いを味わっていたら、この手のひとつひとつは、衆生に対するひとつひとつの救いを表わしているのだ、と突然わかった気がした。

 このような話をすると、想像力がある、と言われることがあるが、少し違う。

 イメージは、何かを見たり聞いたりしたときに脳の反応として必ず起こる現象なのであって、それを意識する、ということがまず大切だと思う。つまり、海の絵を見ると、海の記憶が呼び起こされ、潮騒が聞こえてきたり、磯の香りがよみがえったりする。日常の刺激に振り回されていると、心の中のそうした現象に鈍感になってしまう。

 まずは、気づくことから始めよう。優れた芸術は、特にイメージの喚起力が強いから、その格好の材料になる。作品は限られた情報・刺激に過ぎない。それが心の中に喚起するものをよく味わっていくと、作品世界をより深く感じ、さらに想像の中に遊ぶ楽しみも自然に広がってくるのである。

 シンセサイザー作曲家の喜多郎が、インタビューの中で「音は見るもの、絵は聞くもの。私はそう思っています」と語っているのを読んだことがあるが、まさに、昨品から喚起されるイメージを味わうという鑑賞の本質を、見事に言い当てている。自分の音楽は、イメージを思い浮かべながら聞いてほしい、というメッセージでもあるのだろう。

 もう一つ重要なことは、このような鑑賞の仕方をしていると、作品から喚起されたイメージだけでなく、作品そのものも鮮やかに記憶に残る、ということである。何も画集を買わなくても、いつでも好きなときに心の美術館へ出かけて、作品を見ることができる。お気に入りの作品ばかりを集めた、自分だけの美術館。ついでに、建物も好きなように設計して、好みの自然環境の中に置いてみることをお勧めしたい。

1995年10月

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