親の老いを支える② 父と私
更新日:2020年9月27日
私の父は、花輪の造花製造を生業としていた。物心ついたころから、家には紙製の花が溢れていた。我が家を覗いた女の同級生が、「わー、きれい!」と驚嘆する声を聞いて、そんなものかと思った記憶がある。
造花の製造は、材料の紙を染めるところから始まる。狭い庭に置いたブリキの台に全紙サイズの紙を広げ、バケツに入った染料を大きな刷毛で塗っていく。ありあわせのサングラスをかけて、炎天下、上半身裸で紙染めをしていた父をよく憶えている。傍で見ている息子のために、紙の上に刷毛で鉄腕アトムの絵を描いて見せ、それをすぐ塗りつぶす。そんな父は、働くことを楽しんでいるように見えた。
夕食後も、両親とも仕事場で「夜なべ」をするのが日課で、年中暇なしだったが、けっきょく父は働くことが好きだったのだと思う。私自身、働くことが嫌いでないのは、そうした父の姿を見て育ったことが大きい気がする。
しかし、昭和ひとケタ世代の例に漏れず、話しやすい父親ではなかった。だから、あまり父に自分の気持ちを話したことはない。
中学2年のとき、私の高校受験について、父は、「家では高校しか出してやれないから、工業高校へ行けばいい」と言った。小学校のころから機械いじりが好きで、拾ってきたラジオなどを分解する私を見て、そうした適性があると考えたのだろう。高等小学校しか出ていない父の想像力は、それが限界だったに違いない。だが、私は、中1で小説を書く楽しさを知り、作家になることを夢見ていた。
私は、生まれて初めて、父のことばに真っ向から反対した。ぼくは小説家になる。そのために、自分の力で大学へ行き、文学を勉強する。だから、工業高校には行かないと。
そうして私は、都立の普通科高校に進学した。優等生ではなかったが、大学受験に向けて本気で努力を続けることができたのは、その進路が、父親に反抗してまで自分で選び取ったものだからだと思う。
私が高校2年になったころ、父が突然、牛乳配達のアルバイトを始めた。毎朝4時に起きて、自分の軽トラックで配達する。本人は、「健康のための朝の運動」と笑っていたが、オイルショックのころであり、家の経済はかなり厳しかったのだろう。もしかして、私の大学進学の資金を作るためだったかもしれないと気づいたのは、ずいぶん後のことだ。
自分で大学へ行くと言った割には、私も迂闊で、大学への入学が決まってから、新聞配達で自活しようと、就職先を探した。時期は遅かったが、運よく大学の近くの販売店に住込みで入れることになった。
家を出る朝、軽トラックに机とダンボール2箱きりの荷物を積んで、住込み先に向かった。ハンドルを握った父は、「明日からお前も、おれと同じに毎朝配達だな」と言った。それは、父なりの精いっぱいのエールだと思った。
2009年9月