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  • 執筆者の写真教育エジソン

手仕事の楽しみは?(指の骨折②)


 手術は完了したが、治療の成果が上がるまでには時間がかかるという。また、完全には直らないということも言われている。

 不自由な右手もいつしか日常となり、ふだんの生活で不自由を感じることは少なくなった。パソコンのキーボードも、十本指でほとんど支障なく打てる。しかし、いざというとき、こぶしをぐっと握り込むことはできない。

 私はやらないからいいが、テニスのラケットも、野球のバットも、しっかり握ってプレイするのは難しい。鉄棒もバーベルも、握れないから無理である。スポーツ好きの人なら、さぞ落ち込んでしまう境遇であろう。

 それよりも私にとってつらいのは、手先でものを作るという状況である。包丁を握って野菜を刻む。木材をノコギリで切り、ナイフで削る。ドライバーをしっかり握ってぐっとネジを締める。だが、道具の柄は手のひらの中で泳いでいる。そんなとき、自分の楽しみが奪われるのではと不安を感じる。

 子どものころから、手先で何か作るのが好きだった。機械を分解したり組立てたり、身の周りの道具をあれこれ改良したりして、発明家を夢見ていた。親が造花屋で、家内工業の職人仕事の中に育ったので、小手先でものを生み出す仕事には親しみと憧れがある。器用だと言われるとうれしいし、自分は手仕事に向いていると思う。

 実を言えば、授業の計画を立てるのも、文章を書くのも、手先でものを作る感覚に限りなく近い。生徒を乗せていく手をあれこれ工夫し、手順を組立てていく。全体を見直し、削っては加えることをくり返していると、実に楽しく、自分は職人だとつくづく思う。

 「手は外部の脳である」と言われ、手を動かすことは脳の活性化につながる。それは、手が複雑な動きのできる精巧な道具であり、手自体に無限の可能性が秘められているからであろう。その手を使いこなし、持てる潜在力を引き出そうと格闘するとき、脳は創造的に働く。

 その手が不自由になると、それを補おうとして、脳はいっそう創造的に働くのではないか。脳も手も万能ではなく、限界があればこそ、互いに関わりあうことで可能性を引き出しあう、そんな関係にある気がする。

 埼玉S会病院のK先生は、手に先天的障害のある子どもの手術も、数多く手がけている。ハンドギャラリーには、自然体で生きる、そうした子どもたちの手記を集めた本も置かれていた。ハンデがあるからこそ、手のありがたみもわかり、不自由さを工夫と努力で乗り越える中に、創造性のきらめきがある。

 自分で限界を作ることはないのだ。やりたいことは、諦めずにやってみよう。自分の手のありのままの姿を受け容れ、その存在に感謝して、どこまでできるか可能性を信じながら、手仕事の楽しみを味わい続けたいと思う。

2005.1.

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