能動的聞き方の力 2
新採の定時制で担任の生徒たちとの関係が悪化し、追い詰められていたとき、先輩の先生に勧められた本が『親業』であった。
新採校での問題は根本解決できなかったが、自律訓練法による瞑想と、KJ法による自己省察を経て、私は自他への信頼を回復することができた。そして心機一転、元気に転勤先に赴いた私にとって、『親業』から学んだ方法は、生徒たちと真正面から関わっていくための有力なカードとなった。
まもなく、『親業』の教師版、『教師学』が刊行された。夏休みに4日間の教師学講座があると知り、すぐさま参加を申し込んだ。
講師は、『親業』・『教師学』訳者の近藤千恵先生である。少女のような瞳と、信念に満ちた行動家の雰囲気を併せもつ、魅力的な女性であった。全国から集まった20人あまりの参加者たちは、相互に関係を深めながら、各自の気づきを通して教師学の方法と考え方を学んでいく。
その中で、私は忘れられない体験をした。私が高校生役となり、教師役の相手と話し合うロールプレイだった。カードに設定が書かれている。授業妨害をする生徒。しかし、勉強嫌いではなく、好きな分野に熱中する気持ちが強すぎるあまり、しつこく質問をしたり、不勉強な生徒の揚げ足を取ったりしてしまう。教科担当の教師は彼を呼び、「能動的聞き方」を使って彼の気持ちを受容しつつ、問題が生じていることも伝えて、解決の道をいっしょに考えようと提案する。
対話が進むうち、私は突然、割り当てられた役が高校時代の自分そのものであるという感じにとらえられた。いや、むろんイコールではない。しかし、……。
高一のとき、生徒たちが分担個所を調べてきてレポートする授業で、私は毎回、級友の発表にいちいち揚げ足を取るような質問をし続けた。やればやるほど浮き上がっていく。そうわかっていながら、やめることができなかった。あれは、いったい何だったのか……。
あるいは、高三の受験時代、私ほど本気で受験勉強に取り組む者は、周囲にいなかった。私は、級友たちを内心見下しながら、何かに駆られるように、机に向かい続けた。そんな自分がいやで仕方がないのに、卑小な優越感だけが、当時の私を支えていた。……
ロールプレイの役を演じる私の現身に、高校時代の自分が憑依したようだった。気がつくと、当時の混沌とした内なる葛藤を、整理がつかないなりに、精一杯話そうとする自分がそこにいた。この上もなく素直な、ありのままの自分であるという実感が、私を満たしていた。
問題そのものは、解決するかどうかわからない。しかし、私の話を熱心に聞き、一緒に解決の道を探ろうとしてくれる教師を前にして、「この先生がいてくれるから、私は人生を信じられる」という思いがこみ上げてきた。思わず涙があふれ、私の中で何かが溶けて、浄化されていく感じがした。
事後の話し合いで私がその経験を報告すると、近藤先生は「過去をもう一度生き直す、ということがあるんですね」と言い、特別に、参加者全員の感想を求めた。相手役だった中堅の男性教師も、「私にとっても、とても幸せな時間でした」と言ってくれた。
翌朝、会場に一番で到着した私は、広い畳敷きの部屋に誰もいないのを幸い、瞑想の姿勢をとり、イメージの中で、昨日の体験をたどり直した。途中で近藤先生が部屋に入って来られたのがわかったが、私は瞑想を続けた。数分して目をあけ、先生にあいさつした。「瞑想のおじゃまをしてはいけないと思いまして」と先生は言われた。私は「昨日の体験のことを思い出していたんです」。すると、先生は、私の目を見て深くうなずき、「とっても、おおきな体験だったんですね」と言われた。私は「はい」と答えた。それだけで、もうことばはいらなかった。近藤先生の的確な能動的聞き方は、私を完全に満ち足りた気持ちにさせた。
この体験が私に、徹底して「能動的聞き方」を使うことを決心させたのだった。
1998.12.