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執筆者の写真教育エジソン

何ゆえに彼らは……(私が喪った生徒達)

更新日:2020年9月27日


 担任クラスのS君が亡くなった。顔見知りの少年とのトラブルで刺される、という突然の事件だった。

 K高校に転任早々、会う前から問題生徒だとさんざん聞かされ、私のストレスを大いに高めたが、私が前向きに面談に望んだら、心を開いて実に楽しげに話してくれた、あのSくんである(「12年ぶりの転勤 May 1, 1998」参照)。あれからも私との関係は良好で、彼自身まじめに授業に取り組み、あと1年あまりで卒業、という矢先だった。

 私にとっても、級友たちにとっても、彼はクラスの中で格別な存在だった。それが、いかに多くの人にとってもそうであったのか。告別式で、それを痛感する光景を目にした。式場の周りには、焼香を終え、出棺を待つ数十人の若い男女が、寒風の中、一様に頭を垂れて立ち尽くしていた。若者の数はどんどん増えていき、止まることがないように見えた。それは、何の義理も打算もなく、単に個人としてS君を慕い、その死を悲しんで集まったたくさんの友人たちだったのだ。その群像こそ、彼が22年の人生をどう生きたかを、はっきりと物語っていた。

 教員生活17年の中で、自分が直接に教えた生徒を喪うのは、実にこれが8人目である。信じ難いかもしれないが、そのうち4人が、私の担任した生徒だった。

 先天性の心臓疾患を持つO君は、友達にも恵まれ、体力のハンデと闘いながら2年まで修了した。歌詞を書くのが好きでよく見せに来ていたので、3年のクラス替えで私のクラスになったときは、私自身も嬉しかった。しかし、1日も登校できないまま、4月のうちに亡くなった。遺稿となった「僕にはさようならが言えません」で始まる手紙を読むと、彼が遠からぬ自分の死といつも向き合いながら、精一杯生きようとしていたことがわかる。

 卒業まで4年間担任したF子さんは、重い糖尿病で亡くなった。卒業して1年。成人式を終えたばかりだった。あとから考えてみると、初任校で挫折を体験した私が心機一転前向きに取り組もうと大森高校に赴任し、さっそく担任した新1年のクラスの中で、最初に対面したのが彼女だった。入試の成績がトップだったので、新入生代表のことばを述べてもらうため事前に呼んだのだ。私の新しい生徒だという感慨で、そのときの印象は強く残っている。あのときの彼女は、その後の彼女よりもずっとふっくらしていた。いつからか彼女は痩せて、顔色も悪くなっていった。ときに無気力に見えたのは、体調から来ていたのだろう。4年のときにはとくに疲れを訴えて一時入院もし、出席がぎりぎりだったが、友達に励まされて卒業までこぎつけたのだった。

 あの学年は、私にとってはまさに「永遠の生徒」である。彼らの卒業のとき、私は、自分が精一杯に関わった生徒たちが一人一人さまざまな形で成長し、巣立っていくのを見るという教職の醍醐味を、しみじみと感じたものだ。それだけにF子さんの死は、信じがたくつらいできごとだった。

 H君の兄から、彼が自ら命を絶ったという知らせを受けたのは、K高校に赴任してからのことだ。O高校で私が2度目に卒業させた学年の生徒である。同級生の一人に連絡すると、すぐに仲間全員に電話を回してくれて、成長した彼らと通夜の席で再会という仕儀となった。彼らもまた、私にとっての第二の「永遠の生徒たち」である。4年間、文化祭のクラス演劇に熱中した。そんなとき、ふだんは斜に構えて級友から距離を置くH君が、放課後の大道具づくりに、そっと加わって手伝っている。彼なりにクラスの中に居心地は悪くないのだろうと思ったものだ。

 担任ではなかったが、生徒会役員としてがんばってくれたM子さんの死は、本当に悲しい知らせだった。生徒会顧問の私は、2人の教員と一緒に毎夏、役員の生徒たちを連れて、山中湖畔へ合宿に行っていた。ある年の合宿の夜、ハイになったM子さんのおしゃべりに、延々つき合ったことがあった。彼女の周囲の大人たちがいかに定時制を差別して見ているか、でも自分は定時制に来てどんなに幸せか、そして自分は、差別され弱い立場にある人たちのためにこそ働きたいのだと、そう彼女はくり返しくり返し語るのであった。まじめで優等生ふうだった彼女にもおそらく秘めたつらい体験があり、それだからこそ、それを前向きに乗り越えて、人のために尽くす生き方をしたいと願っていたのだろう。しかし、彼女のその夢は、信号を無視して暴走してきた車に、あえなく踏みにじられてしまったのだ。

 他には、15歳で地方から出てきて一人暮しをしていたが、都会の華やかさに振り回されて、鉄道に身を投じるまで自分を追い詰めてしまったKくん。

 前の学校で進級できずに転校してきて、O高校でも進級できないまま転校していったTくんは、口が悪く、誰にでも挑発的なもの言いをしていた。おそらくはその口が災いしたのだろう。車の追い越しトラブルで因縁をつけた相手に、逆に刺されて命を落とした。

 そして、初任の工業高校で教えた電気科のAくん。勉強は嫌いだったが、毎日ニコニコして、学校生活そのものは楽しくてならないふうだった。O高校に転勤して数年後、彼の同級生と偶然電車の中で出会い、Aくんが仕事中の事故で亡くなったことを聞いた。

 肉親ならぬ身の無責任で日頃は忘れているが、こうして書きつらねていると、その悲報に接したときの無念さがまたよみがえってくる。彼らは、何ゆえにそこで死なねばならなかったのか。

 教師の仕事は、大きな成長点にある生徒たちと関わって、その成長を援助し、やがて巣立っていくのを見送る。そのとき、我知らず夢見る。彼らがこの時期の経験を糧にして、たくましく生き、この世のどこかで「一隅を照らす」存在になってくれることを。しかし、生徒の死は、教師のその能天気な夢を、突然にして断ち切ってしまう。

 しかし、教師はまだしもいい。私も一人の親として、子に先立たれた親御さんの苦しみは、想像するに余りある。親の愛は見返りを期待しないが、それは、子が成長し、自分なりの人生を生きていってくれるという漠然とした望みがあればこそである。そのささやかな夢すら見ることを許されないとしたら、その子を授かったことの意味はどこにあるのか。

 思えば私は、若いころ、自殺こそ思わないが、自分の命をずいぶんと軽く扱っていた。産み育ててくれた親を思うことなど、どれほどあったろう。しかし、今の私は子の親となり、老いた両親の傍らにいて、今はまだ死ねない、生きつづけねばならないと切実に思う。

 生きることの意味は、一人では見つからない。人が互いに関わりを結び、つながることの中に、その意味はおのずと生まれてくる。

 しかし、深くつながり、愛するほどに、死の別れが私たちを苦しめるとすれば、そのことを私たちはどう受けとめたらよいのか。

 そんなことを考えているとき、1冊の本と出会った。それを「本棚」で紹介しよう。

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